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星界の道~航海中!~

星界の道~航海中!~

「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う(1)

昭和四十六年十一月十五日 (富士140号)

 「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う

 日蓮正宗妙信講

「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の掲載にあたって

 正本堂の誑惑を粉砕すべく、昭和四十五年三月二十五日には「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」(先月号掲載)の諫訴がなされ、以来、同年五月二十九日には猊下の御前で学会代表と妙信講代表が論判、結果、学会側は二度と「正本堂を御遺命の戒壇とは云わない」旨の誓いを為した。
さらに浅井先生はこれを確実ならしむるため、確認書の作製を強く迫り、ついに同年九月十一日に両代表の署名かなされた。
 しかるに学会側は破廉恥にも陰で違約をなし、なおも歪曲をくりかえしていた。
よって浅井先生は直接池田会長に対し、歪曲の訂正を迫る強烈なる論文をしたためられた。
それが本論文である。そして創価学会側からは一言の反論もなかった。
 実に「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」と「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の二書こそ、御遺命歪曲の根を断つ大利剣、本家伝統の「本門戒壇」の正義を顕わした宗史に燦たる護法の血書というべきである。  

                        ―編集部―

 一、違約を憤る

 此処に妙信講は、正本堂に就き直接創価学会々長池田大作先生に糺し・且つ訴えるものであります。
 去る昭和四十五年三月二十五日、私共は「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め上申いたしました。
その心は、大聖人究極の御本願たる本門戒壇の大事のまさに曲げられんとするを見て黙止する能わす、正本堂が事の戒壇ならざることを論じ以て宗務御当局の見解を糺し、若し事壇ならずとおぼさば直ちにこの仏法違背を摧き訂正せしめ給え、と訴えたものでありました。
 而して宗務御当局に於ては何等の反論もなく、寧ろ同意すら示すも、所詮は力及ばざりげの体でありました。
然しながら事の重大に鑑み、恐れ多くも御法主上人猊下に御指南を仰ぐことをお勤め下され、四月三日もったいなくも直々の御指南を給わりました。
その御本意を窺い奉った時、私共は感激と共に、たとえ此の一命を賭してもこの御本意を守護し奉るとの決意を堅めたのでありました。
 その後、四月十六日に至って猊下は東京に御下向、常泉寺に於て目通りを仰せ付けられました。
更に、十七日・十九日と再度に亘ってその玉声に接し奉った時、私共は改めて事の容易ならざるを惑じたのであります。
 四月二十二日、宗務当局は「臨時時局懇談会」と称し、総本山犬客殿に会宗門の御僧侶、並びに学会・法華講・妙信講の代表を招集し、折からの公明党の苦境に際して、戒壇論について一気に事の解決を計らんとせられました。
但し事は法義より発することなれば、道理のおもむく所に随って誤れるを正さねば解決する筈も無く、集会後席を改め、猊下の御前にて学会の代表と私共と始めて面談するも、学会に於ては妙信講の所信を認めるが如く又認めざるが如くして、曖昧のままに会は流され、但後日の論判を約するに止まりました。
 たまたまその頃、学会の第三十三回本部総会の開催が追っておりました。前後の事情よりして、私共はその総会に一つの危匯を懐いておりました。
 それは此の総会か内外の注視の中で行われるものなれば、若し学会が席上再び世間を欺かん為に、正本堂を御遺命の戒壇などと云えば、御臨席の猊下も既に御同意と必ず誤解される。
また「事の戒壇」なる用語にしても、猊下の御用いの御意は別意にして、決して三大秘法抄の戒壇を意味するもので無い事は前以て分明であります、学会が之を知りなから、敢えて用語の同一なるを以て、猊下の御本意を世間に誤解せしめるならば、取り返えし
の付かぬ事になる、との憂いでありました。
 思い余って、四月二十四日、森田副会長に直接申し入れ、早瀬総監の許で会談、学会の責任に於て世間に此の誤解なからしめるよう配慮すべきを強く求めました。
森田副会長には之を了承されました。だがいかなる旨を了承されたのか、五月三日の結果は見事なる約束の蹂躙でありました。
 かかる違約を見た時、私共は、かかる重大法義の確認は断じて文書を以てせざるべからずと思うに至りました。
而して此の事の至難なることを思えば亦深い決意を堅めざるを得ず、そして五月二十四日、早瀬総監に此の決意を伝えるに、総監には、事は重大なれば何はともあれ猊下の御前にて学会々長と話し合うことを強く求められました。

 此の上御意を煩わし奉ることの恐れ多さを思いつつも、勧めに随って五月二十九日登山いたしました。
学会の代表は森田・秋谷両副会長・和泉理事長の三人でありました。
そして猊下の御前にて問題の焦点を明確にして学会代表と論判するに、聞き及び給う猊下には、恐れ多くも御自ら、正本堂が三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇では無い事・さらに、未だ広宣流布は達成していない事を明確に仰せ出され、学会が訂正する事を御命じになられたのであります。
三人の代表は、相談の上後日改めて御返事申し上げるとの事で御前を退出いたしました。
 而して六月十一日、宗務院より連絡あって御登山、直ちに学会代表と共に再びお目通り、冒頭、森田副会長は学会を代表して、先日の猊下の仰せ出し、謹んで守り奉ることを誓い、学会発行の出版物等に於ても二度と誤らぬよう関係者にもすでに徹底せる旨を言上申し上げたのであります。
 但し、妙信講との間の確認書だけは何故か強く拒まれました。不思議であります。
他の事はともかく、此の大事に関する限りは、学会と妙信講の間に於て文書確認の為されねばならぬのは、今までのいきさつから見て当然の事であります。又、妙信講こそ此の事を迫る資格を持っている唯一の者であります。
又思うに、もし学会か虚心に過ちを改むるのなら、更に、将来に亘って二度と従来の主張を為さざる決意なら、確認書を拒む理由は毛頭ない筈であります。
 だが、その後も、此の一事に於ては言を左右にして応ずること無く、或いは「未だ論議尽きず」とすら云い出きれたのであります。されば宗務当局にその都度立ち合いを願い、六月十六日・同三十日・七月二十三日と論判を重ねました。
すでに論議も尽き、道理明らか理非顕然となるも、なお確認書の一事だけは拒否を続けられました。誠に不可解至極でありました。
 果せるかな、八月四日、聖教新聞の社説には再び堂々と正本堂を「事の戒壇」とする記事が掲げられたのであります。
猊下の御前に誓い奉ったことの何と易々と破られる事よ、さればこそ将来の為に確認書は必要であったのであります、 此処に於て直ちに書面を以てその不誠実を詰り、確認書も認めずしてなお歪曲の主張を続けるに於ては、すでに公場に於て対決するのはかなしと、日時を切って迫ったのであります。

而して日限の八月十九日、再び宗務当局の斡旋あって大講堂の一室に於て会談、火の出るような激論数時間、遂に確認書を作る旨の了承がなきれたのであります。
但し文書は交換せず、署名ののち猊下に納め奉ることと致しました。
 かくて.昭和四十五年九月十一日、宗務院より早瀬総監・阿部教学部長・藤本庶務部長の出席立ち合いのもと、遂に正参堂が三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇ならざることを文書で確認、約を違えざるを誓い合った上、学会を代表して森田・秋谷両副会長並びに和泉理事長か、妙信講は私共か代表して共に署名、即日総監の手を経て御法主上人猊下の御許に収め奉り、ここに一切は落着したわけであります。
 しかるに本日まで静かに学会の誠意を見守るに、憤りと悲しみ既に押え難きものがあります。
 成程、人目に立ち易き機関紙等に於ては歪曲の言辞は手控えられているようであります。
だが従来の主張の訂止はただの一度も為されてはおりません。訂正されない以上は、過去数年間の歪曲はそのまま生きているのであります。
それだけではない、陰では平然と従来の主張がくり返えされております。いま其の事実を挙げます。
 確認書を猊下に納め奉った翌月、即ち昨年の十月からすでに違約は始っておりました。即ち、登山者に配布された栞にはぬけぬけと次のような曲文が載せられております。
 「正本堂建立の意義は、あらためていうまてもなく、大聖人の御遺命の事の戒壇であり、仏法三千年、史上空前の大偉業であります」更に云く」(奉安殿に)シキミが供えられていないのは広宣流布、戒壇建立を待っているためてあり、それまでは内拝ということになっています。
大聖人の御遺命たる戒壇堂の建立は、今や正本堂として四十七年に完成を見ることになっており、その上棟式が今年十月十二日に行われるのです。
思えば、仏法三千年の悲願が池田会長の手によって完成されんとする現在、共に登山できたことの福運これに過ぐるものはありません」と。
更に同月発行の「登山責任者の手引き」にも「奉安殿には、宗門の肝要一閻浮提総与の大御本尊様が御安置されています。乃至、戒壇堂建立まで、大御本尊を厳護する所としてこれからも登山者と共に歩んで行くことでしょう」また本年に入って四月発行の「文底秘沈抄講義」には「三大秘法抄の文は、事の戒壇の依文であり、事の戒壇の建立は、即、広布達成への、日蓮大聖人の御遺命でもある。乃至、ただ『時を待つべきのみ』と仰せられている、その『時』が、すでに七百年後の今日、あらゆる条件が調って、ここに実現しているのである。今こそ、まさに、その"時"なのである」

 また「創価学会四十年史」には
  「この儀式(正本堂発願式)は、宗門七百年末の念願の建て物である正本堂を、池田会長が発願主となって建立寄進を発願する儀式で、日蓮正宗の歴史に大きな一ページを開くものとして云々」と。

 更には聖教新聞にも
  「まことに仏法は不思議です。五字七宇の南無妙法蓮華経が流布して、今日七百五十万世帯を数え、しかも御聖誕七百五十年の佳節であり、来年は本門戒壇が建立される」(四六・二・十六)

  「今、この地に、仏法史に燦たる正本堂建設の槌音がいよいよ高鳴り、戒壇の建立の日近しを告げている」(四六・ニ・十八)

  「仏教二千年史上で未曾有の大偉業である正本堂の建立が今なされ、明秋完成しようとしています」(四六・七・二九)

  「正本堂完成という、三千年来の仏法史を画すとき、私達は代々の会長の広布にかけたにじみでる行動、斗いに思いを新たにせずにはいられない」(四六・九・二一)等々。

 いったい何の為の確認書であり、約束であったのでありましょう。
内心少しも改悔する所なく表面だけの糊塗であった事は歴然であります。
 だがこれ等枝葉末端の違約は未だ軽し、池田会長自身の違約は何事でありましょう。
即ち本年七月度の本部幹部会に於て「この生命の座とも云うべき正本堂は全地球上・仝宇宙を救うべき根本の道場です。それを財界人の力によったのでもなく、権力の力によったのでもなく、私共貧乏人の我々か力を合せて真心をこめて、大聖人様の御遺命
である正本堂を建立したのであります」(座談会用レコード所録)と。
大衆の前で正本堂を指して再び「大聖人様の御遺命」と高言されております。これいかなる事てありましょうか。
 亦復、今月十二日、正本堂躯(*1)体完成式にはその表白に云く「是くの如く定慧は在世に之を建立し、円戒を後世に遺されしより春秋を累ねて法灯は連綿六十六世、異体同心の修行・折伏の星霜相積もって既に六百九十二年、今まさしく順縁広布の機熟せり。由佳の戒場正本堂の建立進捗して、未曾有の大宝塔地より曜り出でんとし云々」と。(*1「身+區」面区点1-92-42)
 表現婉曲と雖も、文意明かに正本堂を滅後に遺命せられし本門戒壇と指しております。
故に此の文を同日の聖教新聞社説に釈して云く「正本堂は池田会長の『正本堂躯体完成表白」に述べられているように、円戒であり、乃至 円定(本門の本尊)、円慧(本門の題目)は七百年前、日蓮大聖人の崇高な実践により建立顕示されているか、円戒(本門の戒壇)はこれを後世の我々にお残しになられた」と。以て会長の述べんとする意明らかであります。
                                    
 思うに、末法の戒定慧・三大秘法は大聖人の御建立にして、定・慧の二法は勿論のこと、円戒の一事もその義に於ては御在世にすでに成っているのは申すまでもありません。
故に寛尊は「当如是処即是道場」「仏佳其中即是塔義」の意を以て、大御本尊在します大石寺を指して「故に当山は本門戒壇の霊地なり」(取要抄文段)と仰せであります。
然るに、御在世に成らずして後世に残し給う円戒と云えば、これ一天広布の暁を待って立てられる事相の戒壇堂を指す事は自明の理であります。
それか正本堂に当ると云えば、たとえ婉曲の表言を借りるとも、その云わんとする所は全く従来の歪曲のままではありませんか。
会長自らのかかる違約は重大であり、何と解釈したらよいのでありましょう。
更に亦復聞く、「正本堂という仏法史上未曾有の大殿堂」(第三十四回本部総会講演)等云々。
 およそ仏法の世界は政治の策略の世界ではありません。
大聖人の御眼を恐れる裏も表もない真心の世界であるべき筈てあります。
しかるに此の不誠実を見るとは、破廉恥とはまさに此のことを云わずして何を云いましょう。

 而して御書の意に云く、高貴の人は約束を違えず、例せば季札のごとしと。蓋し、学会の会長にしていかで高貴ならざるべき。されば戒いは、かの確認書なるものは、森田・秋谷・和泉の三人の勝手なる所行にして、会長は何ら与り知らぬ所であったのでありましょう。
 されば、法の為、国の為、時に当ってこれよりの大事はなければ、此処に直接池田会長に強く糺し訴えんとするものであります。
 ただ、猊下の任命し給いし信徒の棟領たる法華講総講頭・且つは数百万会員の長に対し、賤身を顧ず輙く莠言を吐く事・頗る驕慢に似て畏れあるも、権威を憚りて云わぬは諛臣、又仏法中怨の責め免れ難けれぱ、敢えて云い切るものであります。
御書に云く「伝教大師云く『凡そ不誼に当っては則ち子以て父に争わずんばあるべからす、臣以て君に争わずんばあるべからず、当に知るべし君臣・父子・師弟以て師に争わずんばあるべからず』文、法華経に云く『我不愛身命但惜無上道」文、涅槃経に云く『讐えば王の便の善能談諭し方便に巧にして命を他国に奉ずるに寧ろ身命を喪うとも終に土の所説の言教を匿さざるが如し智者も亦爾り』文、章安大師云く『寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重し、身を死して法を弘む』文、又云く『仏法を壊乱するは仏法中の怨なり、慈なくして詐り親むは則ち是れ彼が怨なり、能く糺治する者は彼の為に悪を除く剰ち是れ彼が親なり』文、云々」(頼基陳状)と。 只ここの御金言に任せ奉る。

二、改めて仏法違背の文証を挙ぐ

 初めに、学会が過去数年間、いかように御金言に背いて本門戒壇を歪曲して来たか、その事実を改めて此処に挙げます.
 これは正本堂を指して「三大秘法抄・一期弘法抄の事の戒壇」「大聖人の御遺命の達成」「宗門七百年の悲願の実現」などと偽ってきた厳然たる文証である。その文書は膨大、集めれば正に汗牛充棟も啻ならず、昭和四十年二月十六日より実に数年に亘って筆にロに繰り返されて来たことである。
その勢いの凄じきこと・為に宗門一人としてこの義を承伏せざるは無く、その影響の大なること・一般世間までも大聖人の御義はかくなるかと思うにぶ至ったのである。
膨大の中から大綱をとりその一端を示す。
ます池田会長白身の発言、これこそ何より重い。
四十年二月十六日の猊下の御説法により、正本堂が七百早来の遺命たる戒壇建立に当るとして、直ちに全信徒に対する御供養が募られたが、その御供養趣意書から、すでに偽瞞は始まる。
四十年三月のこの趣意書には冒頭に猊下の御説法を引用し、これを承けて云く「かねてより、正本堂建立は実質的には戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明かになったのであります。
正本堂建立の意義はまことに甚深であり、その御供養に参加できる私たちの大福運は、なにものをもってもたとえようがないと思うのであります」と。

 更にいよいよ御供養の開始されんとする一ヶ月前には、重ねて「御本仏・日蓮大聖人様の御遺命たる本門戒壇建立のため、広宣流布のため、正本堂建立に御供養申し上げる大福運と大功徳は、釈尊在世中よりも数千万億陪すぐれ、日蓮大聖入御在世中よりも、なお偉大なる感激を寛えずにはおられない」(大白蓮華、 40・10月号)と。
 これを見るに、正本堂は御供養の始めから欺瞞に満ちゝていると云わざるを得ない。
およそ正宗信徒なら一人として広宣流布を熱願せぬ者はなく、大聖人の御遺命たる戒壇建立を熱祷せぬ者はない。
だが俄かに正本堂がそれに当ると云うとも、東を西と云い・天を地と云うほどの僻事を誰が信じよう。
そこで猊下の権威が刊用されたのである。
 顧れぱ始めて学会が正本堂を云い出した三十九年五月三日の総会では、さすがに会長も云いかねて、自ら正本堂と将来立てられるべき本門戒壇堂を明確に区別している。
それがどうしたわけか、僅か九ヶ月のち、俄に正本堂即事の戒壇即御遺命の達成と変更されて了ったのである。
しかも、すべては四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会に於ける猊下の甚深なる御説法によるものと宣伝されている。
だか不思議なるかな、猊下のその時の御説法を拝見するに、一言もそのような御言葉はない。
よくよく拝せば否定すらしておられる。
いや仮りに万々が一有ったとしても、三大秘法抄の御金言はすでに明々白々、誰かこれと紛れる者があろう。
況や猊下の仰せには全く一言も有られないのである。
それをいかにも甚深の御会通に依って決判されたかの如く見せかけ、猊下の御意として会長から仝信徒に打ち出されたのである。
 されば信ぜざる信徒は一人として有るべくも無い。
ここに全信徒を挙げてあの血の惨むような、一切の蔵の宝を抛った御供養は為されたのである。
まことに末端の信徒の純信を思いやれば痛々しく、ただ無懺というの他はない。
 而して、御供養を完了した後には益々これを偉業として自ら讃え、いよいよこれから内外への大宣伝が始まるのである。
 
まず四十一年七月発刊の「立正安国論講義」には
  「正本堂建立こそ、日蓮大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙ということができるのである。乃至 日蓮大聖入御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって完全に終了するのである。」又云く「『実乗の一善に帰せよ』とは、三大秘法の広宣流布、本門事の戒壇を建立せよとの御命令である。
この大聖人の御遺命を奉じて御弟子日興上人以来七百年、日蓮正宗においては不惜身命の国諌をなし、折伏行に邁進し、邪宗門流を破折しきってきたのである。乃至 本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成される段階となった。
七百年来の念願であり、久還元初以来の壮挙であることを確信してやまない」と。

 更に四十二年の五月、第三十回総会に於ては「正本堂は、さる四十年二月の第一回正本堂建設委員会において、日達猊下のご説法にあったごとく、事実上の本門戒壇であり、世界平和祈願の根本道場であります。
三大秘法抄にいわく「三国並びに閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇なり』乃至 この戒壇建立を、日蓮大聖人は
 『時を待つ可きのみ』とおおせられて、滅後に託されたのであります。以来、七百年、この時機到来のきざしはなく、日蓮大聖人のご遺命は、いたずらに虚妄になるところでありました。
だが『仏語は虚しからず』のご金言どおり、いまや地涌の菩薩が、雲霞のごとく涌き出で、大法弘通に邁進し、ここに、その誠意と情熱が結晶し、七百年来の宿願である正本堂建立のはこびとなったのであります。
この壮挙を、脚本仏日蓮大聖人はどれはどかお喜びでありましょう。
乃至正本堂完成により、三大秘法が、いちおう成就したといえるのであり、『立正安国』の『立正』の二字か完壁となるのであります』と。
 そして四十二年十月、いよいよかの発願式に於ては、その「発誓願文」なるものに断定して云わく『夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年史上空前の偉業なり・・・・・・
三大秘法の流布においては、御本仏日蓮大聖人は、建長五年四月二十八日立宗宣言と共に本門の題目を唱えられ、それより二十七年を経て弘安二年十月十二日本門戒壇の大御本尊を建立せられて之を出世の本懐と遊はさる。
依って、本門戒壇の建立をば『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ云々』と、滅後の末弟に遺命せられしなり。…………今茲に発顧せる正本堂は、文底独一本門事の戒壇にして、唯我が日本民衆の鎮護国家の道場なるのみならず、世界人類の永遠の平和と繁栄とを祈願すべき根本道場なり。………
すでに国内においては六百数十万世帯を達成して、正に舎衛の三億の実現を眼前にす。
更に王仏冥合の進展は、衆参合わせて国会議員四十有五名に達し、有徳王・覚徳比丘のその昔の法戦を本格的に展開せんとす。
乃至 かくして内外の機熟して、本門の大戒壇その建立発願の大盛典を挙行するに至りぬるは、之れ儡えに仏意仏勅の然らしむるところか、悦ぴ身に余り、感激筆舌に尽くし難し………詮ずる所、正本堂の完成を以て、三大秘法ここに成就し、立正の二字すでに顕現せんとす」と。

 更に四十三年の着工大法要には、
  「日蓮大聖人の三大秘法抄のご遺命にいわく『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり』云々。この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要を血脈付法第六十六世日達上人猊下の御導師により、無事終了することかできました」と。

 更に四十四年の定礎式には、そのカブセルの銘に云わく
  「此の正本堂は一間浮提総与の大御本尊を御安置し奉る法華本門事の大戒壇である」と。
 池田会長自身の発言、その大綱かくのごとし。

 さればこれに習って、一般会員の教科書とも云うべき折伏教典(改訂三十五版)には
  「戒壇とは広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式にご安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という、それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である。」又云く『戒壇については、すでに三大秘法を成就する本門の戒壇・正本堂か昭和四十七年完成の運びとなり、民衆立の名にふさわしく、八百万信徒の御供養が結集されたのである」又云く「宗門にとって七百年来の念願であった本門戒壇は昭和四十七年に建立される」と、これまた明確に断定をする。

 更に、教学研讃の依怙とすべき仏教哲学大辞典を見れば、「本門の戒壇」の項に云く 「昭和四十七年(一九七二年)、日蓮正宗総本山大石寺に建立される正本堂が事実上の本門戒壇にあたる。
この戒壇は仏法史上三千年来の念願であり、末法事の戒壇にして、日本民衆の鎮護国家の道場のみならず、世界人類の永遠の平和と繁栄を祈願すべき根本道場となる。
日蓮大聖人は本門の題目流布と、本門の本尊を建立され、本門事の戒壇の建立は日興上人をはじめ後世の弟子檀那にたくされた。
遠くは釈迦・天台・伝教等も各々の使命をもって法華の広宣流布をしてきたが、その内証においては本門事の戒壇建立を顧っての戦いであり、先序をなしたのである。
日進正宗においても、第二祖日興上人以来丑寅勤行をもって六百数十年にわたって一日の怠慢もなく広宣流布達成の大願成就を御祈念してきたのもこのためであった。
創価学会初代牧ロ常三郎会長、第二代戸田城聖会長の死身弘法の戦いも同じであった。
時来って日蓮大聖人大御本尊建立以来六百九十三年目にして、宗門においては、第六十六世日達上人、創価学会においては、第三代池田大作会長の時代に本門の戒壇建立が実現せんとしている」

 同じく「事の戒壇」の項には
  「本門の戒壇に義と事がある。事の戒壇とは広宣流布のときに本門戒壇の大御本尊を安置し奉る所である。事の戒壇の位置は、百六箇抄に『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』とご相伝されている。また三大秘法抄には『戒壇とは王法仏法に冥し、乃至 踏給うべき戒壇なり』と示されている。広宣流布の時到来し、本門戒壇の大御本尊は奉安殿から本門戒壇堂である正本堂へお出ましになるのである」

 同じく「正本堂」の項には
  「正本堂が建立され、本門戒壇の大御本尊がご安置されることは、本門の戒壇建立、すなわち化儀の広宣流布のの実現である。日蓮大聖人の教義の根本は、三大秘法であり、三大秘法とは、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目である。乃至 三大秘法の中で、本門の題目の建立は、建長五年四月二十八日であり、本門の本尊の建立、すなわち法体の広宣流布は弘安二年十月十二日に達成された。そして本門の戒壇については、弘安四年四月八日、三大秘法抄において、日蓮大聖人は化儀の広宣流布を後世の弟子に遺命されたのである。三大秘法抄に『戒壇とは王法仏法に冥じ、乃至 踏給うべき戒壇なり』とおおせである。今まさに、本門戒壇建立の時である。すなわち大御本尊を信受し、功徳に浴し、歓喜してぃる衆生が、日本ばかりでなく世界に満ち、日蓮大聖人のご予言である化儀の広宣流布の時が到来したのである。ここに於て、法華講総購頭・創価学会第三代会長池田会長の発願により、これ等純信な民衆の心からの供養によって、正本堂の建立が実現されることになった。したがって、本門戒壇の大御本尊が安置される正本堂こそ、日蓮大聖人の弟子が長い間待望し、念願していた本門戒壇なのである。乃至 したがって正本堂建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現であり、世界にいまだ曾ってない大殿堂である」と。

 かくのごとく、潮のように押し寄せる文書を見ては、正本堂を御遺命の戒壇建立、広宣流布の達成と思わぬ者は一人として無い。されば学会員のみならず、法華講員は勿論、さらには宗門御僧侶まで先を争って之を讃歎し、かくて宗門一同の義とはなったのである。
御僧侶の讃辞を参考までに二・三挙げれば「義の戒壇と申しますのは、御本尊御安置のところ全て義の戒壇と申します。
今の奉安殿も、客殿も、又この御影堂も、そして皆様方の御家の御本尊様を安置申し上げてある仏壇も皆義の戒壇です。
これに対して事の戒壇と申しますのは、三大秘法抄に『戒壇とは王法仏法に冥じ、乃至 事の戒法と申すは是なり』と説かれてあります如き、大聖人様の仏法広宣流布の時、建立されるべき事実の戒壇であります。
乃至 宗門七百年の歴史は実に只この一事を成就するためのものであったと云っても過言ではございません。
一日たりとも欠がさざる所の丑寅勤行もひたすらこれを待っていたのではございませんか。
皆さん、それがどうでしょう、去る十月十二日に正本堂の建立発願式が執り行われました。
この正本堂こそは、本門戒壇の大御本尊様を御安置申し上げる、事実上の本門戒壇、事の戒壇と承け給っております。
大聖人様が『時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是なり』と申されましたのがこの正本堂でございます。
宗門が七百年間待ちに待ったのが、この正本堂建立発願式でございます」(大日蓮二六五号)

 或いは云く「私共は子供の時から『広宣流布』とか『戒壇建立』とかの言葉を常に耳にし、口にしながらも、何か遠い未来の夢の如くに考えておったものでありますが、それが私共の時代に先づもって『戒壇建立』の実現を見ることが出来るということは、本当に身の福運を感ぜずには居られません」或いは云く「この正本堂建立こそは、三大秘法抄や一期弘法抄に示されたところの『事の攻法』の実現であり、百六箇抄に、『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」

 或いは云く「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』との宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか。正本堂建立発願式こそ、三千年の優曇華、一眼の亀の浮木に超えたる最大歓喜である」

 或は云く「もったいなくも代々の御法主上人猊下は本門戒壇堂建立の為に、日夜身命をなげうって御精進をなされて来たのであります。『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是なり』霊山の誓いが、今ここに実現しようとしているのである」
或は云く「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念顧であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の脚祈念せられて来た重大なる念願であります」(以上何れも大日蓮二六一号所載)と。

 ここまで写し来って、憤りと悲しみ、肚の底からこみ上げてくるのをどうしようもない。
諂いとは云いながら、どうしたらこんな事が云えるのか。「所詮仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり」又「無道心の者生死をはなるる事はなきなり」と、日輪のごとく明かなる大聖人の三大秘法抄を拝しながら、何ゆえ御金言を軽んずるのか、かかる諛言、まことに恥ずべく恐るべしと思わずにはいられない。
外道の賢聖すらなお「九思一言」の用心あり、況や大事の仏法を論ずるにかかる軽卒は許されない。
 だが軽卒と云うには余りにも重大、天を地と云い、東を西と云うほどの見易き誤りが何故にかくも易々と全宗門に受け入れられたのであろうか。
一天広布の暁の国立戒壇は宗門七百年・歴代先師上人によって一分も曲げられずに伝えられ、宗門に生きる者なら三才の童子もよく知る所である。
その大事がどうしてかくも安易に変更されて了ったのか。仏法の壊乱これに過ぎるものはなく、まさに宗門・国家にとって第一の大事である。
これ、先に云うが如く、此の義があたかも猊下の御意のごとくに伝えられ、その上に学会会長の絶対権力を以て打ち出されたか故である。
 ここに報恩抄の仰せを身にしみて拝せずにはいられない。
  「例せば国の長とある人・東を西といゐ天を地といゐだしぬれば、万民はかくのごとくに心うべし。
後にいやしき者出来して、汝等が西は東・汝等が天は地なりといはぱ、もちうることなき上・我が長の心に叶わんがために今の人をのりうちなんどすべし」と。
 さればここに卑しき妙信講あって、正本堂は三大秘法抄の戒壇には当らず、御遺命の達成には非ず、これ御金言を詐るもの、訂正せずんば国も宗門も危うしと云えば、必ず狂気の者・慢心の者と罵られ遂にはどのような事身に及ぶとも、御本仏の御誠めは重ければ只御金言にまかせ、一命を賭してもこの仏法の違背を糺明するものである。

三、既に三大秘法抄に背き奉る

 先に挙げた学会の諸文、いずれも三大秘法抄或いは一期弘法抄を引き、正本堂がその事の戒壇に当る旨を断言しているが、いかに解釈すればそのように会通できるのか。
まこと牽強附会・曲会私情と云うも及ばず、只々不思議を感ずるのみである。
 三大秘法抄には日月のごとく分明に事の戒壇の相貌を示し給うとも、不正直の眼には一も三と読め、欺誑の心には白も黒と映ずるのか。
されば学会に於ては、事壇建立の前提条件たる広宣流布の相さえ御金言を糊塗して、あたかも今が広言流布達成のごとく歪曲し、或いは「舎衛の三億」といい、これが通用せざると知れば「広宣流布とは終着点のない流れ自体」などとぼかし、更には「一往は正本堂建立が広宣流布の完成、しかし再往は新しい広言流布、即ち真実の世界の広宣流布の開幕」などと云い、更には一日蓮大聖人以来の法体の広宣流布が今日果実を結び、世界への化儀の広布の始まり「(已上会長講演)等と云う。
まことに矛盾瞳着・支離滅裂、一々論ずるまでもない。
 
今、改めて清浄・正直の眼を以て三大秘法抄の御聖文を拝し奉る。
  「戒壇とは王法仏法に冥じ・仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を待ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、時を待つ可きのみ、事の戒法と申すは是なり」
 御金言赫々明々、津々として丁寧、一点の己義をさしはさむ余地も無い。
伏して拝するに、本門戒壇の大事は御本仏大聖人の御本願なれば、遠く未来を慮りて御自ら定義を下し給い、日本国にかかる条件の整いたる時始めて建立すべし、それまでは立つるべからずと厳然と定め給うたのである。
此の重大なる御金言、背けば既に仏弟子ではない。
曲げれば既に宗徒では無い。

 此処に念の為、謹んで御聖文の御意重ねて拝し奉る「王法仏法に冥じ・仏法王法に合して」とは、初めに戒壇建立の前提条件を総じてお示し遊ばすものと拝し奉る。
戒壇の建立は、一個人や一集団・漠然たる民衆の帰依などと云う段階で為されるものでなく、実に日本一国を単位として、国家的な帰依の為された時に始めて建立されるべきことを先ず示し給う。
 「王法」とは一国の統治主権である。
即ち政治学に云う所の、国家を構成する三大要素たる領土と人民と主権のうち、主権こそまさしく仏法に云う「王法」に相当する。
断じて「もはや国王を指すのでもなければ国家権力でもない。現代的にいえば政治・教育・文化等社会全般のことを指す」(三十三回総会会長講演)とか「広い意味では個人の生活・一般社会の諸活動を含む」(折伏教典)などとぼかしてはならない。
正しく「王法」とは統治主権そのものであり、平たく云えば一国の政治・それに併う権力を意味する以外の何ものでもない。
御書四百余篇に大聖人がお用いの御意悉く此れを指し給う。
若し他の御用例あらばお示し頂きたい。

 而して一国の運命はこの統治主権・国家権力の在り方に左右される。そして凡ゆる個人は国家に包含されてその影響を受けざる者はない。
ここを以て「一切の大事の中に国の亡ぶるが第一の大事」とは仰せられる。されば個人を安穏ならしむるには一国安泰たるべからず、一国安泰たるには王法仏法に冥ぜざるべからず、ここを以て、一国の政治が宗教の邪正にめざめ捨邪帰正せよ、と練暁遊ばしたのが大聖人御一代の御振舞いと拝し奉る。立正安国論一巻の御主旨も之に他ならず。更に四十九院申状にも「第三の秘法今に残す所なり、是偏に末法闘諍の始、他国来難の刻、一閻浮提の中に大合戦起らんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つべきの秘術なり」と仰せられ、国政の根本に三大秘法の正義を用いる事を強く勧め諌め給うておられる。

 くり返えす。王仏冥合とは国家次元に於ける正法への帰依であり、未だ個人や漠然たる民衆の帰依と云う段階では断じて云い得ない。二人・三人・十人・百千万億人と伝え唱え、遂にはそれが国家の意志にまで及び国政の次元に於て捨邪帰正が為された時、始めて王法が仏法に冥じた、と云い得るのである。この王仏冥合こそ、本門戒壇建立の大前提条件と大聖人は定め給うのである。
 念の為付け加えれば、本門戒壇の功徳は全世尊にも及び、将来は八万の国々の王臣万民も参詣するも、その建立は日本国に於ける王仏冥合の時を以て為される。
これ日本が三大秘法広宣流布根本の妙国なるに依る。他国への気兼ねは一切不要である。
 
 さて、この王仏冥合の事相を、更に具さに人に約して示し給うたのが次文と拝する。
即ち「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と。
 王法が仏法に冥ずる姿は、具体的には当然国政に携わる者の三大秘法受持となってあらわれる。
それも形だけの信仰、政治に宗教を利用するごとき卑しきものでなく、正法を護り奉るに於ては一身はもとより、国家の運命すら賭して悔いぬとの純粋捨身の信心に立つものでなくてはならない。
 安国論には有徳王・覚徳比丘の故事を引き、王法に対し守護付属の発動を促がし給うも、御在世には未だ時至らず、よって末法濁悪の未来にこの姿が事相となって現われる時を持って戒壇を建立せよと仰せ遊ばす。
  「王臣」の二字は、「王」とは日本国の真の国主にて在す天皇陛下、臣とは直接政治に携わる大臣等である。
 『王」の一字は時代に約し政体に約し様々の全通も出来ようが、究極するに日本に於ける真の国主は皇室を措いて他にはない。時流に阿ねる浅浮の会通は必ず後世に恥辱を招くものと云わざるを得ない。
すでに紫宸殿の御本尊は未来を徹見し給いての御本仏の設けである。
何で数百年で通用しなくなろうか。本国土の霊妙・皇室と仏法の不思議な冥契、三世了遠の仏智を蔑ってはならない。
 しからば「王臣」のみにして万民はいかにと云うに、「王臣」の二字に万民一同は摂し給うものと拝する。
王臣帰依の前提に、全民衆の燃えるような信心がないわけはない。

 撰時抄には「衆流あつまりて大海となる、微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一帝一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし、仏になる道は此れよりはかに又もとむる事なかれ」と。
又諸法実相抄には「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱えつたふるなり、未来も又しか
るべし、是あに地涌の義に非ずや、剰え広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱えん事は大地を的とするなるべし」と。
 かくのごとくんば、王臣受持の前には仝民衆の三大秘法受持があるのは当然であり、寧ろ民衆帰依の必然の結果が遂には一国の王法にも及ぶと思われる。
然しながら、繰り返し云う如く、漠然たる民衆と云う段階では未だ王法仏法に冥ずるとは云い得ない、此処を以て、王法にまで及んだ究極の姿に約して「王臣」と仰せ遊ばすものと拝し奉る。然れば王臣の二字に万民一同を含ませ給うは理在絶言である。
 時来るならば、上は天皇陛下より下万民に至るまで、日本一同に声をつるべて本門の題目を唱え奉る事の必定なること、既にこれ大地を的とする御本仏の御金言であられる。
かかる時を歴代上人は「事の広宣流布」と仰せられ、事壇建立の時として七百年来待ち給うたのである。
断して広宣流布とは「舎衛の三億」や「終着点のない流れ自体」とか、「一往は達成、再往は世界へ」などの曖昧なものではない。
 だが御本仏の戒壇建立の御定めは更に厳密を極めておられる。
かかる事の広宣流布の時来るとも、直ちに宗門で勝手に立てられるべきものではない。
そのまま立てればどれ程大規模であっても、民衆の参加があろうとも、なお、私的建立に堕する恐れがあるからである。
本門戒壇は国家そのものが帰依の誠を尽くし国家的公事として建立さるべきものである。
されば事の広布と雖も、欠くべからざる手続きが必要である。
この手続こそ正式なる国家意志の表明である。
この御意か次文の「勅宣並に御教書を申し下して」の御一文と拝し奉る。
「勅宣」とは天皇陛下の詔、「御教書」とは政府の意志であるは論を侯たない。
敗戦後の変態社会においてすら、国事には国会の議決・内閣の意志と共に、天皇の承認は欠くべからざる事項となっている。
況や事の広布の時に於ては論ずるまでもない。
 いかに民主主義の世とは云え、粂約法令等の国事が、単なる民衆の要望などという次元で為されるものではない。
国家ある以上は必ず正式の国家意志に表われねば凡ゆる国事は為し得ない。
本門戒壇の建立こそ国家そのものが仏法に順応して成仏の徳用を顕わす国事中の大国事である。
されば日本における国家意志たる「勅宣並に御教書」が申し下されねば本門戒壇は立てられるべきではない。
これが大聖人の御定めである。
 されば日淳上人は本門戒壇の性格を端的に「大聖人は広く此の妙法が受持されまして、国家的に戒壇か建立せられる、その戒壇を本門戒壇と仰せられましたことは三大秘法抄によって明白であります」(日淳上人全集)と御指南されている。

ここに、正本堂のごとく未だ国家と関与せぬ「民衆立」の戒壇などは、三大秘法抄の仰せに何等関係はない。
又仝民衆の要望なら当然国会の議決を経て国家意志と表われて然るべきものである。
所詮、民衆・民衆とは云いながら、奪って論ぜば単なる宗門立である。
また宗門の信者の赤誠を以て時来るまで巌護し奉る堂宇なら、正しく大御宝蔵・大奉安殿の意であって、その意を正直に貢いてこそ大聖人にその赤誠は通じ奉るのである。
それを詐っていかにも究極の戒壇なるか如く偽瞞すれば、八百万信徒の真心はどうなるのか。
 また聞けば、「国立戒壇などと言う言葉は御書のどこにもない」などと頻りに繰り返えしているが、それなら「民衆立」と云う文が御書の何処にある、椎戯は止めるべきである。
 正しく、王法仏法に冥した暁、勧賞・御教書を以て建てられるべき戒壇は国立戒壇ではないか。
また「国主此の法を立てらるれば」と一期弘法抄に定め給う戒壇は国立戒壇そのものではないか。故に歴代上人は三大秘法抄
・一期弘法抄の御意を端的に国立戒壇と表現し給うたのである。これを否定せんとすればすでに御金言を否定しなけれぱならなくなる。

 若し三大秘法抄を尊重するのなら、改めてお聞きする。
 今日、果して王法が仏法に冥じているのか、王臣一同に三大秘法を持っているのか、勅宣並びに御教書は申し下されているのか、かかる御本仏の厳格なる御定めを悉くふみにじって立てられる正本堂が、どうして「三大秘法抄に予言された通りの相貌を具えた戒壇、これこそ化儀の広宣流布の実現し(仏教哲学大辞典)などと云えるのか。
曲解もほどほどにしなければならぬ。
 なおこれを主張し歪曲を訂正せぬのなら、正しく大聖人一期の御遺命を曲げる者、仏法違背の人と断ぜざるを得ない。
然るに自讃して云く「正本堂の建立こそ私の出世の本懐である」(創価学会)と、又云く「報恩抄にいわく『法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給いたり』と。
乃至 インド・中国・日本の三国にわたり、二千金年の仏教の歴史において、時に応じて出現したあらゆる論師・人師・大菩薩・大僧正等々と崇重されし人々よりも、日蓮大聖人の御弘通が勝れたもうこと百千万億倍である。
しかるに日蓮大聖人は、本門の題目・本門の本尊のみ建立あって本門戒壇の建立は後世の弟子へ遺付あそばされたのである。ゆえに後世において、その時を得、本門戒壇建立の成就される時こそ、三千年の仏教史における最も重大な時である」更に「創価学会が出現しなかったならば、釈迦・多宝・十方の諸仏はもとより、日蓮大聖人までか大虚妄の仏となってしまう。仏滅後二千九百十余年、全世界において、釈尊および日蓮大聖人の御言を助けたる人は、ただ創価学会のみである」(撰時抄講義)と。

 諸々に、「仏教三手余年史上空前の偉業」と正本堂を自ら讃えるのは此の意であったのか。
ついでに破しておく。天台未立の円頓の戒壇を伝教の立て給えるを以て、天台よりも伝教勝れたりとするは確かに御書の御意であ
る。だが、これを以て大聖人滅後の本門戒壇建立に例するは甚しく不当である。それでは大聖人の弘め給うたのは二大秘法となってしまう。然るに諸御書の意には如来滅後二千余年天台・伝教未弘の三大秘法とはあるも、二大秘法とはない。天台は円定・円慧のみ弘めて未だ円戒を定めず、依って伝教は四教開会の迹門の教主釈尊を造立して迹門戒壇の本尊とし円頓の大戒を定めたのである。
 だが大聖人の御法に於ては、戒・定・慧の化法は御在世にすべて定められ給うている。
これ本門戒壇の大御本尊に三大秘法のすべての義は具わり給う故である。此の化法に於て滅後に付け加える伺ものがあろう。
 正しく所引の報恩抄の御文はこの化法に約して能弘の人の勝劣を判じ給うのである。
故に迦葉よりは馬鳴、馬鳴よりは天台、天台よりは伝教と例せられる。
然るに大聖入御滅後の戒壇建立は化儀の段である。故に一例ではない。
若し化儀に例を求めるならば、伝教滅後の弘仁十四年の迹門の戒壇建立を挙げるべきではないか。
されば富木抄には「伝教大師御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円或は死後に之を顕わす。
事法たる故に一重の大難之れ有るか」と。
 かかる見易き化法と化儀の法相を混同させ、大聖人と比肩して一体何を云わんとしているのか、大聖人の御滅後は、ただ「和党共二陣・三陣」の随力弘通、それすら大聖人の御威徳によらずして誰が為し得る。
況や事の戒壇と自讃する正本堂は全く御金言に背くものである。
かくのごとく詐ってなお身を挙げるに於ては、御本仏いかように御覧遊ばすか、大聖人の御憎れを蒙っては誰人の身が持とう。




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